1924年 アメリカ 移民法

白い部分(カリフォルニア)に手を伸ばす日本を、アメリカが牽制  そして1924年7月1日、ついに「新移民法(排日移民法)」が施行され、新移民は全面的に禁止されます。 The Immigration Act of 1924, or Johnson–Reed Act, including the National Origins Act, and Asian Exclusion Act (Pub.L. すると、アメリカでは排日運動が勢いづき、1924年に 「絶対的排日移民法」 が成立してしまいます。 アメリカは国家全体で日本人移民を排除するという意思を示したのです。 安全保障の観点から移民の受け入れに消極的になることもある, 好況時は安価な労働力に対する需要が大きくなるため、人種的・民族的差別感情も弱くなり、潤沢で安価な労働力を提供する移民を、アメリカ、そして自らの企業に繁栄をもたらすものとして高く評価する, 労働基準や経済的保障を損なうものとして移民を批判的にとらえているまた、不況が見舞うと移民は低賃金や文化的分裂をもたらすものとして嫌悪される, ・植民地時代:イギリス系植民地では、アングロ・サクソンが主要な集団 果成立した 1924 年移民法は,それまで労働移動や労働不安に悩まされてき た産業界が期待を寄せた移民労倒力の創出手段となったことを明らかにして きた (7) 0 それでは,アメリカ移民政策の歴史において企業経営者を積極的に位骰づ 立命館国際研究 28-1,June 2015 146 ( 146 ) 1965年移民法改革に向けての「前史」として扱われる2)。しかし,図によ … 移民政策をめぐる議論でも,国別割当が課せられた1924年から1965年までの期間は,移民国 家アメリカが「門を閉ざした」時代とされ,MW法以降の1950年代は,割当が廃止される . (2) 1924年から1965年まで ア 1924年移民法 1924年の移民法(9)は新規移民を抑制することを目的とした法律である。 1890年当時 の人口構成に基づいて、国外出生者の受入れ割合を国別に定めたものであ … http://teemakes.com/immigration-act-of-1924">, Soviet–Afghan War : アフガニスタン紛争 (1978年-1989年). 「排日移民法」の正確な名称は1924年移民法。あるいは、ジョンソン=リード法と呼ばれています。これは白人以外の移民をすべて排除するための法律で、厳密には日本人移民のみを対象とするものではありません。. アメリカにおけるアジア系移民の流入は1848年のゴールドラッシュからはじまった。多くの中国系肉体労働者がカリフォルニア州を中心に鉱山労働や鉄道建設に従事した。アイルランド系移民をはじめとする白人貧困労働者との対立・抗争は1870年代に早くも記録がある。 一方で1870年制定のアメリカ連 … 20世紀におけるアメリカの移民政策の分岐点が1921年から1924年(国別割当法・排日 移民法)、1965年から1978年にかけての移民法改定であることについては多くの研究は 一致している。後者は移民数と構成が変化するきっかけとなり、移民の増加とともにラテ - 1年間の受け入れ移民数の上限を、東半球17万/西半球12万と定めた。, 参考:演説で、「我々は、我が国への移民志願者に対して、いまや『あなた方はどこに生まれたのですか』とかではなく、『あなた方はアメリカにどんな貢献をできるのですか』と問わなければならない」と述べた, ・西山隆行『移民大国アメリカ』ちくま新書(2016年) 1965年移民法についてなのですが調べてもいまいち理解できません;;1965年移民法とはどんな移民法なのですか?;;出来れば詳しく教えて頂けると助かります><それと、なぜジョンソン大統領は1965年移民法に著名したのでしょうか?この According to the U.S. Department of State Office of the Historian the purpose of the act was “to preserve the ideal of American homogeneity”. さらに1922年。 アメリカの最高裁は、「白人とアメリカ土着人と、アフリカ人子孫以外は、アメリカに帰化できない」という判決を下しました。 これにより、すでにアメリカ市民として暮らしていた日本人移民の権利が剥奪されてしまいました。 1924年。 The law was primarily aimed at further restricting immigration of Southern Europeans and Eastern Europeans, especially Italians, Slavs and Eastern European Jews. 一方で1870年制定の アメリカ連邦移民 ... 1924年排日移民法. 153, enacted May 26, 1924) この法律は、各国からの移民の上限を、1890年の国勢調査時におけるアメリカに在住する各 国出身者を2%以下にするものであり、1890年以後に大規模な移民の始まった東ヨーロッパ出 身者 … 3.2  1924年移民法(ジョンソン=リード法)、The Immigration Act of 1924, or Johnson- Reed Act, including the National Origins Act, and Asian Exclusion Act (Pub.L. In addition, it severely restricted the immigration of Africans and banned the immigration of Arabs and Asians. そのような中で 1924年 5月26日に成立した移民法 ( Immigration Laws )は、1890年の国勢調査における出身国別人口の2%の移民を許可するとなっていたが、南欧・東欧からの移民が少なかった時代を基準とすることによって、実質的にそれら「新移民」を制限しアングロ・サクソン系ないし西欧北欧出身者を多数とする人口構成を守ろうとしたものであった。. 3 企業経営者らによる請願活動 1924年移民法成立の舞台となったのは1923年12月3日に始まる第68連邦議会であった。 ここでは1921年移民法が1924年5月末に失効する後の恒久的な移民法の作成が急務と … Congressional opposition was minimal. -スコットランドやウェールズ、アイルランドからの移住者も多かった, 多くの邦が人口を増大させるために無制約に移民を受け入れようとしていると批判し、それら移民の多くは、絶対君主への忠誠心をいまだに保持しているか、逆に無政府主義の傾向を示していると危惧, ジェームズ・マディソン アメリカにおけるアジア系移民の流入は1848年のゴールドラッシュからはじまった。多くの中国系肉体労働者がカリフォルニア州を中心に鉱山労働や鉄道建設に従事した。アイルランド系移民をはじめとする白人貧困労働者との対立・抗争は1870年代に早くも記録がある。 一方で1870年制定のアメリカ連 … 68-139, 43 Stat. アメリカ人は自国のアイデンティティについて、それなりに明確かつ肯定的な共通概念をもっていた。, 英語を共通語とし、共和制・自由競争・陪審制が政治・経済・司法の根本的枠組みとなり、宗教的には政教分離の原則に立つキリスト教プロテスタンティズムが受け入れられることとなった。また同時に平等主義、個人主義、勤勉・倹約の精神、自発的結社などの価値観が広く行き渡るアングロ・アメリカ社会(イギリス文化が基底となる社会)が形成された。, 1965年以前には、さまざまな活動、制度、および政策を創案して移民のアメリカ化を促進していた。アメリカ人は18世紀に「アメリカナイゼーション(アメリカ化)」という言葉と概念を作り出し、それと同時に「イミグラント(移民)」という言葉と概念も考案した。彼らは、この国に上陸してくる新たな人々をアメリカ人にする必要を感じていた。「われわれは国民がもっとアメリカ化するよう配慮しなければならない」とジョン・ジェイは1797年に言い、ジェファソンも同趣旨のことを語った。アメリカはある意味では移民の国だったが、それ以上に、移民とその子孫をアメリカ社会に同化させた国だった。, では、何をもって移民が同化するか。当時は、その人がどれだけ受入社会の文化様式を受容し(文化変容)、受入社会の「集団および制度のネットワーク、または社会構造」のなかに入り、受入社会のメンバーと婚姻によって結ばれ、受入社会に限定的な「民族帰属意識」を発展させるかによっていた。, 1990年代になると、移民の問題について理解をするにあたって、ヨーロッパの学者の一団が「社会的安全保障」という概念を展開した。国家の安全保障が何にもまして主権を重視するのに対し、社会的安全保障はアイデンティティ、すなわち国民が自分たちの文化、制度、生活様式を維持する観点から把握をしようと試みたのである。, → 「発展のための受け入れ可能な条件のなかで、言語、文化、人間関係、宗教的アイデンティティとナショナル・アイデンティティおよび慣習の伝統的なパターンを維持できるかどうか」ということ重要視, 移民政策は、雇用や経済成長、人口動態、文化、社会、社会福祉、権力分布、外交関係、安全保障など、様々な領域に影響が及ぶ。多様な理念と利益関心が表出される政策領域なので、時期に応じて全く異なった表れ方をする。-基本的に3つの移民に対する見方がある。, 移民を制限する場合は、特殊技能や教育、あるいは出身国(1924年にアメリカが行ったように)など、制限効果のある入国審査基準を設けるか、ヨーロッパ諸国の「ゲスト・ワーカー」プログラムや、アメリカのメキシコ人季節労働者やH-1B査証[専門職労働者]のように、限定された期間のみ移民を受け入れて、入国者数を制限することになる。, 冷戦時に自由主義陣営に引き入れたい国からの移民を積極的に受け入れたり、難民受け入れに積極的になることもあった, 2001年の9.11テロ事件以降 とくに1924年に成立した割当移民法を指す(ただし,カナダ,オーストラリアのほか,ラテン・アメリカ諸国にも排日移民法は存在した)。この法律によって,日本人は帰化不能外国人ということで入国はいっさい禁止された。… But though the Act aimed at preserving American racial homogeneity, it set no limits on immigration from other countries of the Americas. 153, enacted May 26, 1924), was a United States federal law that limited the annual number of immigrants who could be admitted from any country to 2% of the number of people from that country who were already living in the United States as of the 1890 census, down from the 3% cap set by the Emergency Quota Act of 1921, which used the Census of 1910. 本稿では,アメリカ移民政策を画期する1924年移民法について,有力な経営者団体である全国産業協議委員会(nicb)が1923年12月に開催した移民会議に焦点を当て,企業経営者らの移民政策への取り組みを検討し,彼らが移民法策定における重要な担い手であったことを明らかにする。 1924年には国 別割当制度を導入し,東および南ヨーロッパから の新移民の入国を制限した。そのため,1965年ま でアメリカへの移民は停滞する。ただ,アメリカ 大陸が国別割当制度の対象外となっていたこと, 農業労働人口が不足していたことから,1942 【第2部】1924年移民法の成立過程と日米関係 / (0160.jp2) 第4章:アメリカ移民法史:1798~1924年-規制的・差別的移民法の形成過程- / p154 (0161.jp2) 1)初期の移民政策:自由開放的入国の時代 / p157 (0164.jp2) 2)規制的要素の出現:州政府による規制の試み / p161 (0168.jp2) 68–139, 43 Stat. 排日移民法は、1924年7月1日に施行されたアメリカ合衆国の法律の日本における通称である。正確には1924年移民法(Immigration Act of 1924)、またはジョンソン=リード法(Johnson–Reed Act)であり、日本人移民のみを排除した法律ではない。この法律では、各国からの移民の年間受け入れ上限数を、1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者数を基準に、その2%以下にするもので、1890年以後に大規模な移民の始まった東ヨーロッパ出身者・南ヨーロッパ出身者・アジア出身者を厳しく制限することを目的としていた。独立した法律があるわけではなく、既存の移民・帰化法に第13条C項(移民制限規定)を修正・追加するために制定された「移民法の一部改正法」のことを指す。, 特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられ、当時アジアからの移民の大半を占めていた日本人が排除されることになり、アメリカ政府に対し日系人移民への排斥を行わないよう求めていた日本政府に衝撃を与えた。しかし「排日移民法」という呼称はその内容に着目して日本国内のみ用いられる通称である。運用の実態はともかく、移民の全面禁止そのものは日本人のみを対象としておらず、白人以外は全ての人間が移民を禁止されている。, その点より、この通称は不適切であるとする意見もある。英語圏では「アジア人排除法」と呼ばれる場合はあるが、排日移民法という言葉に相当する呼び方は見られない。, アメリカにおけるアジア系移民の流入は1848年のゴールドラッシュからはじまった。多くの中国系肉体労働者がカリフォルニア州を中心に鉱山労働や鉄道建設に従事した。アイルランド系移民をはじめとする白人貧困労働者との対立・抗争は1870年代に早くも記録がある。, 一方で1870年制定のアメリカ連邦移民・帰化法は「自由なる白人およびアフリカ人ならびにその子孫たる外国人」が帰化可能であるとしていた。ここで言う「自由なる白人 (free white)」が指すものは当初は明確ではなかったものの、判例の積み重ねなどでそれは「コーカサス人種 (Caucasian)」であるとされた。, 中国系に関しては、1875年のPage Act of 1875で既に制限が行われていたが、1882年のいわゆる中国人排斥法で明示的に移民が禁止されることになった(当初10年間の時限措置だったが後に延長がなされた)。, 日本人の場合、ハワイへの移民は明治時代初頭から見られ、やがて米大陸本土への移民も盛んとなる。日本から直接渡航する場合もあったが、多くの者は入国しやすくまた日系人コミュニティーがすでに存在していたハワイ諸島(あるいはカナダ・メキシコ)をベースとして、ハワイ併合などにより機を見ては西海岸各都市に渡航していたようである。移民した日系人たちは勤勉で粘り強く仕事をこなし、ある程度の成功を掴む者も現れた。大部分は白人の下働きなど、低廉な賃金の労働に従事していたが、従順に働くことから周囲からの反感を買い、日本人漁業禁止令や児童の修学拒否など、数々の排日運動が起こった。しかし彼らは一般的に「日系人だけで閉鎖的コミュニティーを形成し地域に溶け込まない」、「稼いだ金は日本の家族に送金してしまう」などとアメリカ人からは見られていた。しかし、移民たちがまとまって暮らすことには、言葉の問題や習慣の違いによる現実的理由のほか、迫りくる反日感情からわが身を守るための手段でもあった。また、現実にアメリカ市民権の取得には熱心ではない人が多く、合衆国への忠誠を誓わないなど、排斥される理由はあった。, それでも、日本人はアジア諸民族の中で唯一、連邦移民・帰化法による移民全面停止を蒙らなかった民族であった。これは日本が同地域で当時唯一、欧米諸国と対等の外交関係を構築し得る「文明化が進んだ」国であり、アメリカ連邦政府も日本の体面維持に協力的であったことによる。しかし連邦政府はその管掌である移民・帰化のコントロールは可能でも、州以下レベルで行われる諸規制に対しては限定的な影響力しか行使できなかった。, こうした連邦レベル以下での排斥行動が典型的に現れたのが1906年、サンフランシスコ市の日本人学童隔離問題であった。同年の大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを口実に、市当局は公立学校に通学する日本人学童(総数わずか100人程度)に、東洋人学校への転校を命じたのである。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されたが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。, この背景としては、日露戦争に伴ってアメリカが外債の消化や平和交渉など日本を影から支援したにも関わらず、日本が門戸開放政策を行わなかったことへの不満も挙げられる。, 日本政府もここへきて危機感をもつ。為政者にとって在米日本人の問題は、すでに植民地経営が開始されていた台湾、朝鮮、日露戦争により進出の基盤を得た満州ほどの重要性はなかったが、大国としての矜持から、他のアジア系民族と同列に連邦移民・帰化法規を適用されることは避けたいと認識されていた。こうして1908年、林董外務大臣とオブライエン駐日大使との間で一連の「日米紳士協定」が締結され、米国への移民は日本政府によって自主的制限がされることとなった。この協定により旅券発行が停止されたのは主として労働にのみ従事する渡航者であり、引き続き渡航が可能だったのは一般観光客、学生および米国既在留者の家族であった。この紳士協定による自主規制の結果として以後10年ほど日本人移民の純増数(新規渡米者-帰国者)はほぼ横ばいに転じる。, 紳士協定の「米国既在留者の家族は渡航可能」という抜け道を活用する形でこの頃盛んとなったのが「写真結婚」による日本人女性の渡米である。米国既在留者は男性独身者比率が高く、若い女性の「需要」は高かった。そこで彼らの出身地の親戚や縁故との間で写真や手紙だけを取り交わして縁談を成立させ、花嫁が旅券発給を受けて入国したわけであるが、見合結婚の習慣のないアメリカ人にとってこの形態は奇異であり、カリフォルニア州を中心として非道徳的として攻撃された。背景には、独身日系人男性が妻帯しやがて子供も生まれることで(出生児は自動的に米国市民権を得る)日系人コミュニティーがより一層発展定着することへの危機感があったことが考えられる。結局、写真結婚による渡米は日本政府により1920年に禁止される。, 一方「単純労働者から脱却し定着を図る日系人」への警戒感は、その土地利用への制限となって具現化する。1913年カリフォルニア州ではいわゆる外国人土地法が成立、移民・帰化法でいうところの「帰化不能外国人」の土地所有が禁止された。法人組織を通じて土地を購入する、あるいは米国で誕生した自分の子供(前述の如く米国市民権を得ている)に土地を所有させ、自らはその後見人となり更に子供から土地を賃借する、など様々の脱法的土地利用方法が駆使されたが、1921年の土地法改正により、これらの法的な抜け道はすべて否定されるに至った。, なお、米国全土でみると移民排外主義は白人中のいわゆるWASPを中心とした層に支持者が多かったが、西海岸諸州においては、東部から中西部ではむしろ被差別の対象で、且つ日系人と職をめぐって競合していた南欧・東欧出身の下層労働者ら(特にイタリア系貧困労働者)が排日運動において積極的役割を果たしたことが特徴的であった。, さまざまな圧迫の中で、1920年には米国全土で約12万人、カリフォルニア州で7万人(州総人口の2%)の日系人が生活していた。, 以上のように、米国における日本人(日系人)の移民活動は紳士協定に基づいた日本の自主規制と州レベルでの排斥活動の間で微妙なバランスを保ちつつ進行していたが、1924年にはいわゆる排日移民法が米国連邦議会で審議され成立することで大転換を迎える。, 先立つこと1921年、米国連邦議会は移民割当法と通称される法案を成立させていた。同法では、1910年国勢調査における各国別生まれの居住者数を算出、以後の移民はその割合に比例した数でのみ認められるとしていた。しかし、1910年という基準年次は、すでに南欧・東欧系の大量移民が始まった後であるために彼らにとって有利だという不満が高まり、基準年次を南欧・東欧系移民が未だ少数だった1890年に後退させる改正案が急浮上した。, 南欧・東欧系移民に不満を抱いた人々の中には、マディソン・グラント(「偉大な人種の消滅 “The Passing of the Great Race”」などの著書がある)らに影響された、北方人種こそ人類文明のほぼすべてを築いた優れた人種だとするノルディキスト(北方主義者)が含まれる。グラントは合衆国政府にもアドバイザーとして招かれ、合衆国を栄えさせるには、コーカソイドの中でも北方人種である北欧諸国人とドイツ人・イギリス人・アイルランド人については移民制限を弱めて移民を奨励する一方で、中欧・東欧のアルプス人種や地中海周辺の地中海人種については制限を強化し、黒人や黄色人種などの有色人種は一切移民させないことが肝要だと主張した。グラントの主張はカルビン・クーリッジ大統領にも強い影響を与えた。また、1890年代に東欧系移民が増えた原因は、ユダヤ人がロシア帝国のポグロムを逃れたことにあり、以後の東欧系移民もユダヤ人が多いため、反ユダヤ感情も東欧系移民制限論の背景にはあった。, 1924年の移民・帰化法改正はこのような背景でまず下院で提起され、そこには排日といった要素はもともと含まれていなかった。仮に1890年基準年次をとった場合日本の移民割当数は年間146人となるはずであった。 ところが反東洋系色の強いカリフォルニア州選出下院議員の手によって「帰化不能外国人の移民全面禁止」を定める第13条C項が追加される。「帰化不能外国人種」でありながらこの当時移民を行っていたのは大部分が日本人だったため、この条項が日本人をターゲットにするものであるのは疑いようもなかった。, 下院で同法案は可決され審議は上院に移った。この時点では、より地域利害に影響されにくい上院では同法案は否決、あるいは大幅に修正されるであろう、その結果日本は理想的には現在の紳士協定方式の維持、悪くとも割当移民方式の対象国となるのではないか、との観測を米連邦政府国務省、在ワシントン日本大使館ともに抱いていた。しかし上院では、日本からの移民流入が米連邦政府のコントロール下になく、内容の曖昧な紳士協定に基づいて日本政府が行う自主規制に依拠している点が外交主権との観点で問題とされた。, 米国務長官ヒューズと駐米大使埴原正直は、紳士協定の内容とその運用を上院に対して明らかにすることが、排日的条項阻止のために不可欠であるとの判断で一致した。こうして、埴原がヒューズに書簡を送付、ヒューズがそれに意見書を添付して上院に回付する、という手はずが整った。ところが、埴原の文面中「若しこの特殊条項を含む法律にして成立を見むか、両国間の幸福にして相互に有利なる関係に対し重大なる結果を誘致すべ(し)」(訳文は外務省による)の「重大な結果 (grave consequences)」の箇所が日本政府による対米恫喝(「覆面の威嚇」veiled threat)である、とする批判が排日推進派の議員により上院でなされ、法案には中立的立場をとると考えられていた上院議員まで含めた雪崩現象を呼んだ。「現存の紳士協定を尊重すべし」との再修正案すらも76対2の大差で否決された。クーリッジ大統領は「この法案は特に日本人に対する排斥をはらんでいるものであり、それについて遺憾に思う」という声明を出して否定的な立場をとったが、議会の排日推進派による圧力に屈する形で拒否権発動を断念、日系人は「帰化不能外国人」の一員として移民・帰化を完全否定されることになった。, この対日排日法の成立について、通俗的には埴原書簡中の「重大な結果」という不注意な文言が上院の雰囲気を逆転させた、と理解されているが、書簡の有無にかかわらず同法成立は時代の必然だった、とする分析も有力である。理由として以下のようなものが挙げられる。, この排日移民法によって日本は大きな移民先を失ったため、その代替として満州を重視せざるを得なくなり満州事変につながったとする見方が古くから存在する。昭和天皇が敗戦後、日米開戦の遠因として「加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである(中略)かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に之を抑へることは容易な業ではない(『昭和天皇独白録』より)」と述べているのが好例である。, 一方で、同法によって日本人移民が全面禁止されなくとも、上述の紳士協定下で日本からの移民はもともと制限されており(1909年から1923年の日本人移民純増数は合計で8,000人強、年平均で600人弱に過ぎず、しかも1921年からは純減に転じていた)、更に割当制が必至とすれば日本が期待できたのは年間146人に過ぎず、日本が現実に失った利益は小さい、とする見解もある。移民法の成否にかかわらず、日本の対米移民はもともと対中国大陸に比べてはるかに小さな比重を占めていたに過ぎないので、同法の成立は後の日本の大陸進出とは関連がない、という説である。, いずれにせよ、排日移民法は当時の日本人の体面を傷つけ、反米感情を産み、太平洋戦争へと突き進む遠因となったのは疑いないところである。少数とはいえども移民する権利が存在する状態と、完全に移民する権利が奪われて1人も移民できなくなるのとでは、超えられない差が存在しており、新渡戸稲造が同法成立に衝撃を受け、二度と米国の地は踏まないと宣言する(実際は1932年に満州事変の国策擁護目的の米国講演を行うこととなり、翌年カナダで客死)など、特にそれまで比較的親米的な感情を持っていた層に与えた影響は大きかった。, なおアメリカが連邦レベルで移民・帰化関連法規を改正し、人種的制限が撤廃されるのは1952年、カリフォルニア州で人種による土地所有・賃借の制限が消滅するのは1957年のことである。1965年にアメリカの移民法で国別人数制限が改正された。. 1924年まで、合衆国の法律はアジアからの移民を排斥していた。アメリカ西部の住民は、中国人をはじめとするアジア人に職を奪われることを恐れ、アジア人に対する人種偏見が広く存在した。1943年に中国からの移民を禁止する法律が廃止され、1952 Powered by WordPress. Designed using Magazine Hoot. 1924年に成立したアメリカの排日移民法(1924年移民法)は、ワシントン会議を経て 安定の兆しを見せた日米関係を再び悪化させ、日本外交にとって大きな衝撃を与えた。 この排日移民法の成立は、右派団体が政府の英米協調路線を一層激しく非難するように 排日移民法に抗議するデモ。 1924年8月、在日アメリカ大使館前 . 加えて1907年になると日本人の入国が制限されるようになりました。 そして1924年移民法ではアジアの移民の大半を占めていた日本人が排除され、日本人も完全に排斥されることになったので … 1924年、アメリカで移民法(いわゆる排日移民法 )が議会を通過した。 このことは優生学者たちにとっては、 東ヨーロッパ と 南ヨーロッパ からやって来る「劣った血統」の脅威に関する議会の討論において専門職顧問として中心的な役割を果たす最初の機会であった。 According to Columbia University historian Mae Ngai, the 1924 Act put an end to a period where the United States essentially had open borders. 外国移民の受け入れおよび制限に関する法律の総称。 現在,ブラジル・アルゼンチン・オーストラリア・カナダなど各国で整備されているが,歴史的にはアメリカ合衆国の移民法が興味深く、一般に移民法といった場合,アメリカの,とくに「1924年の移民法」をさすことが多い。 ヨーロッパからの移民を積極的に受け入れている州は人口も増大し、農業や芸術も発達していると指摘したう上で、移民の権利を制限しようという辺境な考えは、新しい共和国に似つかわしくないと警告した。, ‥アメリカに2年以上居住している自由な白人に市民権を与えるという法律 移民を制限する場合は、特殊技能や教育、あるいは出身国(1924年にアメリカが行ったように)など、制限効果のある入国審査基準を設けるか、ヨーロッパ諸国の「ゲスト・ワーカー」プログラムや、アメリカのメキシコ人季節労働者やH-1B査証 [専門職労働者]のように、限定された期間のみ移民を受け入れて、入国者数を制限することになる。 *1950年代末移行の黒人の公民権運動の帰結として、人種、エスニシティ観が激変したことが, 移民査証の発行において、人種、性別、国籍、出生地、居住地に基づく差別的措置を禁じ、移民政策に関して、高技能者と、すでにアメリカに移住している人と近親関係にある人を優先することになった, - 離散家族の再結合という原則 / 出生地主義原則 ・ハンチトン『分断されるアメリカ』集英社文庫(2017年) なかでも1924年移民法は,日本人を帰化不能外国人と規定して 全面的に移民を禁止する条項を盛り込んでいたことから,一般に排日移民法と呼ばれる 。 同法は 緊急移民割当法 (以下,1921年移民法)の国別移民割当の基準を1910年セ ンサス から1890年の 1790年代 英仏戦争と国内の党派対立の結果、移民への支持は減少, → 外国人法は、合衆国の平和と安全を危険にさらすと判断できる外国人を逮捕し、追放する権限を大統領に与えた。, → 戦時中には14歳以上の男性の在留外国人を拘束し、強制退去させる権限を大統領に与えた。, → ヨーロッパの好ましくない統治を避けて幸福を追求しようとしてきた人々が兄弟として受け入れられるべき、新しいカナンの地となるべきだと主張, 大衆の支持を獲得するために作り上げられた党組織で、移民や貧困者に衣食住などの社会サービスを提供したり、社会的上昇の機会を提供をする, 1850年代には反カトリックを特徴とする秘密結社が組織され、都市部で反カトリック、反移民の立場から選挙活動に携わるようになった。, 移民やカトリックの影響力を制限しようとする人々はノウ・ナッシングと呼ばれるようになった。, *移民排斥よりも大きな問題である奴隷の問題を提起する共和党が現れると、ノウ・ナッシングの凝集力は低下し、1860年までに運動は終焉アメリカの移民政策は、建国以来、州政府が主に担っていたが、1875年に最高裁判所が移民の入国管理は連邦議会の専権事項だとの判断を下した。, エリス島の隣にあるリバティ島には、アメリカ合衆国の独立100周年を記念して、独立運動を支援したフランス人の募金によって自由の女神像が設置されました。アメリカの自由と民主主義の象徴であるとともに、世界各地からやってくる移民にとって新天地の象徴ともなっている。, 中国系は1850年代から70年代にかけて、炭鉱労働、鉄道建設、製造業、農業などに従事する安価な契約労働者としてカリフォルニアに連れて来られたが、白人労働者はそのせいで賃金が低下し、労働環境が悪化すると不満を抱いた。, → 中国系は、新聞などでは神を信じないアヘン中毒者、売春婦、博打打ちとして描かれた, 経済状況の悪化に伴い、生産性の低い炭鉱が閉鎖され、大陸横断鉄道が完成し、新しい入植者が太平洋にやってくると、反中国系感情は悪化二大政党も中国系への対応を迫られるようになり、民主、共和両党ともに中国系の排斥を支持, ‥ 反中国系の意識は1900年代に、中国系がチャイナタウンに集住するようになるまで収まらなかった, 1890年の国勢調査における外国人生まれの人口を基準(*注)として、母国籍を同じくする集団に, 1890年以降、東・南欧から、ユダヤ系やカトリックを中心とする、新移民と呼ばれる人々が、急速、かつ大量に流入してきたことが理由にある。興味深いことには、当時の移民問題の多くが人種問題として議論されていたのである。, アングロ・サクソンを中心とするプロテスタントの人々は、カトリック信者の大量流入に不安を感じ、プロテスタントではないヨーロッパからの移民は、WASPとは異なる人種と見なされた。, ユダヤ教徒の流入もまた脅威だった。彼らはキリスト教徒ではなく、東欧から移民してきたユダヤ系の多くは共産主義(1914年にロシア革命が起こって以降)に共感するところがあった。, → 共産主義と異教から自由と民主主義を守らねばならないという論理は国民の支持を集めた。, → メキシコなど西半球からの移民労働者の流入には制限を設けない(南西部の農場主からの要請), 第二次世界大戦を経て、新移民のアメリカ社会への定着、同化が進むにつれて、母国席主義に対する, 批判も強まった。戦争で命を懸けてアメリカのために戦ったカトリック信者やユダヤ教徒、アジア系を拒み続ける理由はないと考えられた。, ・自由主義の守護者を任じて、その勢力を拡大しようとしているアメリカが、味方にしたいと考える, ・中国との協力関係を深めようとする観点からも、中国人を排除する法律が撤廃され、他のアジア系の移民枠が拡大されるきっかけに, 今日のアメリカの移民法の大枠を規定しているのは、1965年の移民法である。そして、その移民法が設定された際の主眼は、1924年の移民法の原則を覆すことにあった。, 初のカトリックの大統領 ジョン・F・ケネディが母国籍主義の廃止に向かわせる ・明石紀雄・飯野正子『エスニック・アメリカ[第3版] 多文化社会における』有斐閣選書(2011年), 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。, View America 公式ウェブサイト- アメリカ合衆国 政治経済、移民やビザの情報, Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます), 移民問題は多様な理念と利益関心が表出される政策領域 → 時期に応じて全く異なった表れ方に, 枠が設けられたヨーロッパやアジアからの移民と、西半球からの移民は区別するという分岐したシステム.

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